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【つぶやき】ラクシアの死生観について

今回は、ラクシア世界における死生観についてダラダラ呟いていきたいと思います。

 

 

 

1.『死のポルノグラフィー化』

 

まず、ラクシアの死生観を考えるにあたって、我々の死生観を考える必要がある。

 

ゴーラーが1955年に発表した論文「死のポルノグラフィー」から、アリエスが引用し、語っている。

19世紀までは、性や誕生がタブーとされ、20世紀になると性がオープンになり、死が反対にタブーとされるようになった。

 

我々の日常生活で、「死」に対して、タブー意識がある。現代日本において、「死」は公に口する話題ではなく、極端な話、世間話で飛び出るようなテーマではない。

 

近代以前は、死に対する恐怖、苦しみ、醜さ、耐え難い衝動といった負の感情を表に出す死生観があったという。

 だが、近代以降、死にゆく者たちは自分の死期を様々な手段で悟ったとしても、生者への配慮からそれを口にすることはない。

「死」は隠蔽されたのである。死に対する生の感情は隠蔽することが求められ、「死」は恥ずべきものだという死生観が広がった。

これが、死のポルノグラフィー化である。

 

我々、現代の日本人は「死」というワードにどういったイメージを持つだろうか。

自殺率の上昇、凶悪犯罪の報道、こうした現状を受け、学校教育では「死」を否定的に捉えて、「いのちの教育」を強調し始めた。

 

(ある種、当然な流れだ。自殺を助長するような教育は行えない)

 

また、こうした背景には家族機関の外部化が見受けられる。「死」というものが身近では無くなった。かつては、死は家庭内で床に伏し、迎えられたが。現代では家庭内で「日常的な死」は許可されない。警察の事情聴取が行われ、専門の資格を持った医師により「死」が認められ、初めて死んだとされる。

 

我々が持つ死という感覚は、当然文化的背景によって形成されたものであり、本能的に持つ感覚ではない。(人間の殆どの感覚が、文化によって形成されたものではあるが)

 

纏めると、現代日本に済む我々が死に抱く感情とは、「遠く」「恥ずべきもの」「忌避すべきタブー」。といったものだろうと考えられる。

 

 

 

2.ラクシアの死生観

 

ラクシアにおいて、一般的に魂の輪廻は認識されている事象であるだろう。

穢れという概念の周知や、【リーンカーネーション】による転生は実際に存在すること、ハイマンの「デジャヴ」からも、そのことは確かと言える。

 

更に、神というものが、稀有な例ではあるが、直接見て、声を聞くことも可能である。

神官による、神の奇跡も決して日常から離れた例外的な事象ではなく、身近なものである。

 

天に召され、神々に仕えることは、善いこととされている。それまでに至る魂で無ければ、輪廻転生を繰り返し、生を受け、死を繰り返す。

 

魂とは、連続的なものであり、不滅である。死とは、決して魂の終焉ではなく、寧ろ始まりとも言える。

少しでも宗教心のある者であれば、その輪廻転生に逆らうのは穢れた行いだという認識がある。

 

こうした事柄だけでも、我々現代に生きる日本人とは、およそかけ離れた死生観を持っている事がわかる。

 

 

3.チベットとラクシアにおける死生観の相似

 

チベット仏教の考え方が、非常にラクシア世界における死生観と相似していると感じられる。

 

チベット仏教において、「生」こそ苦しみであり、「死」は忌避されるものではない。

何故なら、魂は輪廻転生を繰り返し、再び生まれ変わると考えだからだ。

 

そうしたチベット仏教が根強い、ラダックの人々に「死」は恐怖ではない。魂の連続性が存在するからである。

 

「死」を迎え、自らの精神が生み出す、恐怖の幻想を乗り越え、輝かしい光の中へ溶け込むことができれば、「生」という苦しみを受けずに済む「輪廻転生」から救済されるとされている。これが、所謂「解脱」という状態だ。

 

身も蓋もない言い方になるが、「死」は人生の行いの総決算であり、「解脱」が出来るかどうかの、チャンスタイム、というのは少し語弊があるだろうか。

「解脱」に至れなければ、更に徳を積むべく「生」が始まる。

 

(大変俗的だが、「生」は受験生のようなもので、「死」という解脱入門試験が行われ、失敗すれば浪人生として再度「生」を繰り返すようなものだと私は捉えた)

 

ラダックの人々は、自らの人生に誇らしげであれば、寧ろ「死」が待ち遠しくあるともされる。(これは少し極端な例だが)

 

「死」に恐怖はないのか? という問いに「悪いことをしていないのに、何故そのようなことを感じる必要がある?」とも返していたところからも伺える。

(なお、非道を行うと餓鬼道などに落ちるとされる)

 

 

我々日本人が持つ死生観とは、かけ離れたものであろう。

 

だが、「死」に恐怖は無くとも「哀しみ」は存在する。ラダックでは、人が死ねば、喪に伏し、女達は自らの哀しみの感情を歌にして、表現する。

 

このバランスこそが、ラクシアにおける死生観なのではないか、と私は感じた。

 

ラクシア世界において、死は魂の消滅ではない。輪廻転生が行われ、徳の高い魂は、神々の元へ召され仕える。

神々の元へ召される状態がチベット仏教における「解脱」のようなものではないだろうか。

 

生者との別れに哀しみは伴うであろうが、これは「消滅」に対する別れではなく「長く離れ離れになってしまう」という感情が、濃くなったものだろう。我々が感じている「死」に対する哀しみとは種類や方向性がやや違うはずだ。

 

雑なこじつけをすれば、我々が思っている以上にラクシアにおける人々は「死に恐怖を抱いては居ない」のではないか、ということだ。

 

 

 

4.神の奇跡は矛盾しているのか、あるいは俗的な存在

 

近代の死において「死と戦う病院こそが正義」という概念がある。これは「1.」でも記載した「死の隠蔽」の筆頭である。医者が死こそ敗北と捉えてしまったが為に、我々の「死のポルノグラフィー化」の考えが流布されることになった。

 

ラクシア世界において、施療院は存在するものの、治療、治癒はやはり神殿が主に担っているだろう。

 

神殿がすべき仕事は、「ホスピス」であり、神のもとに召される事への恐怖の否定、死にゆくものを安らかに見送ることであり、死に抗う神の治療は、ラクシアにおける輪廻転生、最終的に神のもとに召される「解脱」への抗いなのではないか? という考えが浮かんだ。

 

しかし、これは考えるまでもなく極論である。

 

怪我や病気による死では、生の間に積むべき「徳」。ラクシア世界風に言えば、「魂を清める」時間が大幅にロスされることになる。

神としては、多くの魂が自分のもとへ集い、来るべき神々の戦争に備えたい。とすれば、一つでも多くの魂が輪廻転生から抜け出し、仕えて貰いたいと、意図的かはさておき、感じていることだろう。

 

神の奇跡により救われた民は、より強く神を意識し、敬虔に務めるだろう。結果、輪廻転生をより早く終え、神のもとへ召される可能性が高くなる。

神の声を与えるも、神の奇跡による救済も、全ては神のスカウト行為の一貫にすぎないのではないだろうか。

 

俗的なこのシステムこそが、神の奇跡の正体なのかもしれない。

 

 

 

5.我々プレイヤーキャラクターとの死生観

 

当然、我々が作成するプレイヤーキャラクター達の死生観は、我々プレイヤーの死生観がそのまま取り込まれる。

ゲームマスターが展開する死生観も、同様にゲームマスターが持ちえるものが適用される。

 

これで何も問題は無い。寧ろ、こうしたラクシア世界の住民における一般的な感性の相違こそが「冒険者」らしさとも言えるだろう。

 

寧ろ、別の宗教観を持ちだしたシナリオを作ったところで、イマイチ共感性が薄れてしまうだろう。

 

だが、敢えてラクシア世界をより身近に感じるシナリオ、RPを展開し、ハイファンタジーを楽しみたいのであれば、こうした死生観の違いに着目して行ってみると、面白いだろう。